『荀子に曰く、夫れ学は通の為に非ざるなり、窮して困しまず、憂えて意衰えざるが為なり、過福終始を知って惑わざるが為なり.』
「本当の学問というものは、立身出世や試験などのためではなく、窮して困しまず、憂えて心衰えず、過福終始を知って、惑わないためである。」(荀子)
このコロナウイルスような大変な時本当に困窮してしまう。高い55階から飛び降りたり拳銃で頭を打ちぬいたり、鉄道で仁王立ちになって列車にひかれたり。そんな事故が最近耳にする。
戦前なんかでも戦争に突っ込んでいくころや赤紙で軍隊に引っ張られたり、困窮してしまうことは幾度かあるもんだ。
こんな時こそ、学問が役に立つわけであって、学問は単に就職するための手段なわけがない。あらゆる場面に学ぶことがあり、それが身につくことで致死が見識となりその学問が「活学」となって生かされるわけです。
休校が長く続いて 不規則な生活が余儀なくされ、いざ学校が始まると嫌になるもんでしょう。学問はただ学校に行って暗記してそれで試験を受けて及第点をもらうってなもんじゃいけないわけで、昔なら農業がほとんどだったんで家の手伝いをしてそれ自体が学問でした熊沢蕃山は弟子に「孔子を学ぶだけが学問ではない。家のお手伝いをして学ぶのは尊い学問である」といったそうだ。
これからもなお続くこともあるウイルスや災害困窮したときに心の支えで強くなれる学問をしましょう。
何から始めるかっていえば「文献」を読むこと。これは歴史の人物が出てくるわけで、人物に学ぶ。人物に学べば「敬」が素直にわいてきます。すれば今自分は何をしなければならないかを考え、やってない「恥」が芽生えるこれが大切で、このココロに反った時に進歩向上がある。歴史に学ぶのは大切年号の暗記ではなく人物が何をしてどんな成果を上げてどういう生い立ちであったかを学ぶことは、非常に勉強になる。そのうちに帝王学や、人間学が読みたく成れば学問に入ったということになる。これをやっていれば必ず困窮したときに役に立つものです。
高校や大学を卒業してしまったら何も学ばなくなってしまったのを「痴」と言います。
佐藤一斎先生の三学
少(わか)くして学べば壮にして為すあり。壮にして学べばおいて衰えず。老いて学べば死して朽ちず。
「道を聞く夕に死すも可なりとの言葉にすがる老いの日暮し」川越の奥貫友山の言葉もありますね。年を取ると感じますね。