尊敬は他人が強要するもんではない。
京都に伊藤仁斎先生の墓が二尊院にある。この先生は京都で歩いているときに所司代(今の知事)が向こうから馬で来られた。そしてかなり手前で馬から降りて仁斎先生にご挨拶をされたという。学問で鍛え上げられた住協の先生にはそれだけのご威光と尊厳があって、格式があったんでしょうね。
また琵琶湖の高島町(旧小川村)で生まれた藤樹先生は聖賢と慕われいまだに影響を与えておられる。江戸時代も終わりころか明治のころか定かでないが、あるお方が藤樹先生のお墓のお参りに訪れた。ちょっと道がわからないので他の草を取っていた農夫に道を尋ねた。ご案内しますといって農夫は自分の家に向かっていった。それについていくと自分の家で一張羅の着物に着替えて、中江藤樹先生のお墓にご案内したという。との位尊敬され大切にもったいなくおもわれていたか。
安田銀行創設した大蔵大臣をやられた結城豊太郎氏は山形県赤湯の生まれで現在は記念館がある。この方は経団連の会合でも何の会合でも廊下を歩くつの音がしてくると会議室は緊張が走りちんもぬになっと言われる。それだけの品格と厳格さがあった。
昨日の辞任の記者会見では、報道関係の挨拶がないとか病気に対してお大事にという言葉がなく報道の前に人間としてどうだというツイッターやテレビのキャスターの人間というのがわかっていないような者たちの意見が多い。
そもそも人間は「品格」「尊厳」「信頼」などなどきちっとしたものがなければならない。ところが挨拶をしないとかの件は当然その気がないからしないものであってそれが報道関係者の人間性がどうということでなく、すべては本人にあってそんなことを言うんであれば本人に言うことであって、相手は関係ない。質問の内容はいつもの御用質問とか一問一答という突っ込まれないような記者会見なので興味も何もないが。
総理大臣たるものは自分で政治家を目指し代議士の総意で首班指名されてなるものであって、自分が進んだ道であって誰にないをいわれっるとかいうより、壮大な権力をもって使いまくってるわけであるから、「品格や厳格さや党苦を重ん場kじゃって今に対処するといった武田信玄の名句のように「遠慮」など要するに知識技術よりも「徳」が優先されたものでなければ成り立たない。
これが知識技術優先で「徳」を忘れてきた日本の情けない姿である。